小倉簡易裁判所 昭和38年(ろ)176号 判決 1963年7月23日
判 決
本籍
福岡県浮羽郡田主丸町字水分菱野
住居
北九州市小倉区宝町二丁目土屋別館横
建設業手伝
吉元明こと
小西人史
昭和五年十月五日生
右の者に対する窃盗被告事件について次のとおり判決する。
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実は別紙のとおりである。
しかるに被告人は当公廷において、現金窃取の意思は存在しなかつた旨主張し、当時被害者から塵紙一束を窃取しただけであると争うところ、検察官提出にかかる被告人の供述調書中には、被告人が現金を窃取するつもりで被害者のポケツトに手を入れた旨の記載があるが、その余の全証拠によつてもこれを補強するに足る立証がない。そして司法警察員作成の現行犯逮捕手続書の記載或は当時逮捕に当つた証人吉村初美の証言によれば、被告人が本件公訴記載の日時場所において、被害者着用の半オーバーの右ポケツト内から同女所有の上質ちり紙一束をすり取り窃取したことが認められるだけである。思うに窃盗罪は他人の占有する財物を自已の占有下に移すことを以つて成立するのであるから、被告人がかりに現金を窃取する意図の下に被害者の内ポケツトに手を入れた場合、そこに現金がなかつたためたまたま在中していた他の財物(本件ではちり紙一束)をすり取つたときは、一個の窃盗罪の既遂であつて、現金窃取の未遂とちり紙窃取の既遂とが併存するわけではない。それはかりにその事実が証明されたとしても単に目的物の錯誤として論ぜられ情状として考慮されるにすぎないのである。
そして公訴事実はこれを刑罰法令の各本条に定める犯罪構成要件にあてはめて法律的に構成したところの訴因により明示されなければならないのであるから、それぞれの訴因はこれにより表示されるところの一個の歴史的社会的事実を法律的に見て他の事実から区別して表象するものでなければならないのである。そうでなければ審判の対象は特定されず、被告人はその防禦をなし得ないこととなるであろう。
このように考えるならば、既遂の事実を未遂の訴因で表示することが許されないことは明らかである。
従つて被告人が被害者から塵紙を窃取した行為は、本件訴因に含まれないものといわなければならない。
そして検察官は当裁判所の示唆にかかわらず、右ちり紙の窃取については審判を求める意思のないことを明らかにしているのである。もとより裁判所は場合により検察官に対し訴因変更を命ずる権限を有するのではあるが、当事者主義を基調とする現行法の下においてかかる権限の行使は極めて慎重であるべきであり、とくに被告人の利益のためにのみ行使さるべきものと考える。
そうすると裁判所は、法律的に見て一個の窃盗既遂罪を構成することの明らかな右塵紙窃取の行為のほかに、本件訴因にいう現金窃取の未遂の事実の存したか否かを検討しなければならないこととなるのであるが、被告人にその犯意のあつたことは前記のとおりこれを認め得るとしても、その着手のあつた事実については検察官の全立証によつてもこれを認めることができない。
そうしてみると本件は結局罪となるべき事実の証明がないこととなるので刑事訴訟法第三三六条後段に従い判決で無罪の言渡をなすべきものである。
よつて主文のとおり判決する。
検察官森田亀寿出席。
昭和三十八年七月二十三日
小倉簡易裁判所
裁判官富川秀秋
被告人は昭和三十八年四月二十五日午前十時五十分頃、北九州市小倉区魚町五丁目丸和フードセンター第五勘定場前付近において現金窃取の目的で、落合敏子着用の半オーバーの右ポケツトに左手を差し入れ、財布を窃取しようとしたが、その目的を遂げなかつたものである。